2014年08月08日

高等学校軽音楽コンテスト埼玉大会を終えて

4歳から習っていたエレクトーンを小学校いっぱいで辞め、
辞めるときに「一生音楽はしない」と決意しました。
自分よりグレード(級)の低い生徒が自分よりも上手い、
言われるがままにグレード検定を受け、
取得したものは実際の実力を示すものではなかった、
小学生の時にその現実にショックを受け、
ただその世界から逃げたいだけだったのかも知れません。

ずっと封印していた音楽的行動をオープンにしたのが中学3年の夏休み。
自由研究で仲間3人でオリジナル曲を作り発表しました。
状況が歪曲して、学年発表会でもみんなの前で演奏する事になってしまいました。
その後の自分を決めた決定的な出来事でした。

当時の音楽の先生から卒業時、
『実のところ、音楽には深い関心があり、知識や考えを持っているのですが、
 いささか自分の世界にとどまったのが残念です。
 これからは、うんと前面に出て、アピールしよう!』
と書かれた「表彰状」をもらいました。
自分のそのときの気持ちも含めて、見事に言い当てられているなと思いました。

将来音楽の道に進みたいと親に打ち明けたのは、中3のそんなときでした。
親としてみれば、たかが一度の発表会で熱でも出したかと思ったでしょう。
僕の頭には子どもの頃から聴いていたYMOやゴダイゴ、
洋楽の中でも特に思い入れが強かったホール&オーツ、
そういった人たちが活躍するシーンで自分も同じようにやりたいという気持ちと、
もう一緒にやっている妄想がありました。

それならば基礎をしっかり勉強して音楽大学へ行きなさい、と
ロックの魂を抱えたまま、気持ちがモヤモヤしたまま、
クラシックの作曲のレッスンに通い続ける高校時代でした。

クラシックの勉強の反動は当然バンド活動に来るわけで、
当時で言う主要五教科の成績は早々と崩壊し、
バンド9割、作曲レッスン1割という高校生活を送るようになりました。
僕が今の生徒・部員に成績のことを強く言えないのは、
こんな自分があったからでもあります。

自分を音楽漬けにしたくて吹奏楽部に在籍し、
でも気持ちは完全にバンドに傾いていました。
高校に軽音部はありませんでした。
バンド活動は日曜日、街のリハーサルスタジオでの練習でした。
天満橋や天王寺のスタジオを使っていました。
のちに友人宅の空いたスペースに楽器を集め、安いドラムセットを買って、
リハーサルスタジオとして使えるようにしました。

バンドには目標がありました。
「秋の文化祭前夜祭のステージに立つこと」
そのオーディションに合格するために練習を重ねました。
自分たちのバンドはかなりイケてると思っていました。
高校1年、高校2年とオーディションに臨みました。結果は2回とも落選。
高校2年の文化祭をもってバンドは終了するという結成当初からの約束通り終了、
一度も前夜祭のステージに立てませんでした。
同級生のバンドが喝采の中演奏している姿を見て、
悔しさと情けなさから、
絶対プロになってやるという気持ちがさらに強くなっていきました。
バンドは結局イケてなかったわけですが、
ひとつだけ誇れることは、
一度もメンバーが替わることなく2年間活動できたということです。

その後本当に運良く、プロとして音楽活動できるようになれたのですが、
僕には音楽で賞をもらったとか、高い倍率のオーディションを勝ち抜いたとか、
そんな経験がありません。
だから、その高いハードルをクリアすることがどんなに大変かわかりません。
そしてクリアしたときの嬉しさも、実はわからないのです。


「第4回全国高等学校軽音楽コンテスト埼玉大会」がありました。

今の勤務校からは、
3年生バンドと1,2年生混合バンドが地区予選にエントリーしましたが、予選敗退。
今の部活の状況を考えたら、エントリーするという気持ちになっただけでも、
評価できる前向きな行動だったように思います。
そして悔しいと思ったならば、その気持ちを忘れないでいて欲しいと思います。

前任校は予選別地区から、3年生バンド2つがエントリーしました。
顧問ではなくなったけれど、人間関係がなくなるわけではないし、
数年間一緒に過ごした人間同士の情や絆があります。
制約や立場を取っ払ったひとりの人間として、とても結果が気になりました。

予選が終わった夜、Twitterで、うち1バンドが予選通過したと知りました。
早速返信。


8月6日、決勝当日。
僕は今年も舞台袖に一日中いました。ステージ上楽器周りの担当でした。
バンド名「ガラナ」が出演待機で舞台袖に来ました。

「お客さんは君たちのオリジナル曲を楽しみにしている。
 みんな味方。緊張する要素なんてどこにもない」
「歌詞をしっかり聞いている人に伝えること」
「気持ちが高ぶっても構わないけど、丁寧に演奏すること」
と言って送り出しました。

舞台袖で演奏を聴いた感じ、ちょっと地味かなと思いました。
去年も同じ状況で、部員たちの演奏を真横で聴いていました。
あのときは熱く、会場全体から伝わってくるものがありました。
今回はそれが感じられませんでした。
「丁寧に」なんてアドバイスしたのがマズかったかなと思いました。

審査発表のとき、僕は受賞バンドの整列・誘導係でした。
審査員講評の最後は、タケカワユキヒデさんでした。
斜め下から見ると猪瀬直樹に似ているなぁ(失礼しました!)なんて、、、
エントリーした各オリジナル曲のクオリティの高さを褒めてくださいました。

審査発表。
特別賞2,奨励賞3,準グラ、グランプリの順で発表がありました。
手応えがなかったので割と冷静に発表を聞き、
前に出てきた受賞バンドを、羨ましく思いながら整列させていました。

全国に行ける上の2つの受賞は無いと思っていました。
申し訳ないけれど僕の基準で判断して、ひいき目に見ても
それだけの圧倒された感はありませんでした。
前日のリハーサルで全バンドを聴いた時点で、上位2バンドは見えていました。
残り5つを審査員がどんな基準で評価し、決めるかというところでした。

ということで、
特別賞は、
圧倒的なパフォーマンスで沸かせたバンドと、超個性的なボーカルが目を惹いた、
いずれもカバー曲で臨んだ2バンドが選ばれました。
そして奨励賞の発表。
1校目。
2校目。
そして3校目。僕の中では最後の枠。
前任校の名前が、想像していたよりも淡々と呼ばれました。
それまで冷静に発表を聞いていたのですが、
その瞬間から数秒間、頭の思考が停止しました。
きっと本人たちは頭の中真っ白だったんじゃないかと思います。
前に出てきた彼らを整列させ、先頭にいた睦実(以下、睦)と軽く握手しました。
睦は泣いていました。その理由はあとになって知ることになるのですが。

評価を得たのは、彼らのオリジナル曲が持つチカラだったと思っています。
演奏力の高いバンドはいくつもありました。
今回最終的に賞を勝ち得たのは、
表現したいこと、楽曲・バンドへの思いの強さをステージで表すことができ、
なおかつ、見ている人にそれが届いたことではないかと思います。

顧問を離れ、しかもその夏のタイミングで何故? と運命を呪いましたが、
タイミングがそうだっただけで、
彼らの部活動の流れの中で、受賞は必然だったと今は思います。
自分の高校時代と比べてみても、演奏力も表現能力も素晴らしく、
自分の高校時代に彼らがいたら、きっと憧れの存在に見えたに違いありません。

前任校で顧問をしていた頃、
集会等で、大会で成績を残した運動部が表彰を受けている姿を、
羨ましく思って見ていました。
音楽部の彼らにも全校生徒の前でいい思いをさせてあげたい、
コンテストを目指すきっかけとなったのは、その程度のことでした。
9月の始業式には是非みんなの前で表彰してもらえるようにと
顧問の先生にお願いしておきました。

表彰式が終わって閉会してすぐに、
睦が賞状を持って僕のところへ走ってきました。ハグしました。
何人かの先生が見ていて、なかなか感動的な場面だったと思ったのですが、
どうやら誰もカメラには収めていなかったようです。

今の勤務校の部員もこの大会を見に来てくれていました。
予選で敗れて悔しい思いをしながら見ていた部員もいたと思います。
でも会場に足を運んでくれた姿勢を評価したいと思います。
絶対に次の一歩に繋がると信じています。

大会終了後、前任・現在勤務2校の交流会を設けました。
決して強制ではなく、会場で挨拶する程度のつもりが
生徒間でそういうことになりました。嬉しかったです。

日が経つにつれて、喜びがジワジワと広がってくる大会でした。

999

  

Posted by mrgntknk at 15:36Comments(1)

2014年07月20日

軽音コンテスト予選が終わって

全国高等学校軽音楽コンテスト埼玉大会の予選ライブが行われました。
今年で4回目。僕自身は顧問として2回大会から引率しています。
埼玉県の軽音楽という部活動も、だいぶん活気付いてきました。
今大会から予選もライブ審査することになりました。
そしてオリジナル楽曲重視の傾向も強まり、
エントリーをオリジナル曲でした場合、
同じ学校からもうひとバンド参加が可能になりました。
とまあ、いろいろ変化が起こった今年度、
春から連盟の常任委員をさせてもらっています。

とここまでは、事実の羅列です。
以下、自分の中でモヤモヤした感情を言葉として残しておきたいので、
3つの項目にまとめて記します。




「それでも悔しい」

4月に今の勤務校に来て、軽音顧問になれて胸をなで下ろしたのも束の間、
練習環境の厳しさ、練習習慣の未熟さ、レベルの低さ、そして
前年新人演奏会で発見した輝く才能を持つ部員が退部していたという事実、
前途多難な年度初めでした。
4月、5月、6月の途中まで、
仕事がつまらなくて仕方ありませんでした。
部員からポジティブな空気が全く伝わってきませんでした。
毎年のように部活顧問が変わり、それは3年生の活動に確実に影響を及ぼし、
変化を受け入れない姿勢になっていました。
3年生たちは、なかなか心を開いてくれませんでした。

変化が見られたのはコンテストの応募用紙を提出する直前くらいからだったか。
(遅い!)
コンテストも「出ません」と尻込みするかと思っていたけれど、
エントリーすると言い出した部員からは、少しずつ変化が見られました。
なかなかダイレクトにコミュニケーションできなかった3年生は、
なんと、オリジナル曲を作りますと言い出す始末。
前任校でやった同じやりかたで、
彼らの歌詞・メロディから響き(コード)を引き出す形で、
放課後、イメージを具現化していくサポートをしていきました。

僕にしてみたら、今年度はマイナスからのスタートでした。
コンテストに2バンドもエントリー出来たこと、
春には想像もできませんでした。
地区予選上位7バンドから漏れた事実を受け入れる顔は、
春とは違っていました。
3年生は実は、3年生にして初めての学外演奏でした。
演奏後のインタビューでもひとりひとりしっかり答えていました。
1、2年生混合で組んだバンドは、
ひいき目に見てしまう部分はあっても、決勝に残るボーダーにいたと思います。
1年生が夏の大会に顔を出す学校はそういません。
次は狙えると思っています。
大きな進歩はありました。でもやっぱり悔しいです。




「自分のことのように嬉しい、でも」

前任校は他の地区で予選を戦いました。
僕が学校を離れたあと、当たり前ですがいろいろ変化もあり、
でも年に1度目標にしているコンテストには当然エントリーするわけです。
コンテストに先立って、尚美学園で高校生バンドの別イベントがあり、
そちらに出るバンドと、コンテストに出るバンドとを指導しに
前任校まで行ってきました。
更にもうひとバンドは今の勤務校まで足を運んでくれ、指導させてもらいました。

あるとき、
昨年春に都内の合同ライブに連れて行ったときの映像を見る機会がありました。
バンドメンバーを確認しました。
昨年春一番期待しつつも、空中分解してしまったそのバンドのDNAは、
今年のそれぞれのバンドに受け継がれていたんだということに気付きました。

前任校を離れる際、最後だし、書きかけのオリジナル曲を見ておいてやるよと、
そのときまだ未完成だった曲で今回のコンテストにエントリーし、
見事地区予選を突破したと顧問の先生から連絡をいただきました。
僕がいるあいだにそういった喜びを味わいたかった。
広島を離れた翌年から古巣にリーグ連覇されてしまう
浦和のミシャ監督と自分をダブらせてみたりしました。




「これも部活なんだろうなというやるせなさ」

現実、軽音を技術指導できる先生は、県に10人もいないと思います。
各学校諸事情あり、音楽にバンドに縁もゆかりもない先生が顧問になるケース、
これは他の部活含めよくあることだと思います。
だとしても、
「私、楽器の使い方も接続の仕方もわかりません」
「音楽のこと何も知りません」と
カミングアウトする顧問の先生の学校が予選突破したりすると、
正直、俺何やっているんだろという、やるせない気持ちになります。
悔しさ、多少の怒り、情けなさ、
その気持ちをどこに持っていったらいいかわからなくなります。
今回もそんな気持ちになりました。
学校の部活ってのは技術面だけ指導すればいいってもんじゃない。
そういったことも全部受け入れつつやっていかなければならないんでしょうね。  

Posted by mrgntknk at 21:59Comments(2)

2014年05月07日

歯医者

もう2年も定期検診を受けていないなと、
慣れ親しんだ歯医者に予約の電話をした。
すると「通信障害等の理由でおつなぎできません」
のような意味の自動応答が流れた。
改装でもしているんだろうかとHPにアクセスして驚いた。

先生はこの3月に、長い闘病の末、亡くなられたと載っていた。

歯医者だけは4歳頃からずっと通っていた。
何度も引っ越して、同じ場所で先生も替えたりしたから、
診てもらった先生は10人どころじゃないすまない。
そして40歳に近づいてやっと巡り会えたというか、
初めて自分からすすんで治療に行けるようになった先生だった。

患者を不安にさせない。
とにかく手際がいい。
プラス、治療費が良心的。

親知らずを全部抜いてもらったけれど、
抜いた後が大変ですよと言われた下の歯のときも、あっさりと、
そしてその後の腫れも全くなく。
僕の信頼はそのとき揺るぎないものになった。

体格が縦横にとても充実していた先生だったので、
もしかしたら・・・・と思うけれど。
震災の年、最後に治療してもらった歯が調子悪くなってきたので、
またほかの歯医者をさがします。

先生、お疲れさまでした。  

Posted by mrgntknk at 21:13Comments(0) 雑記 

2014年04月01日

総括

娘が家族に加わったけれど、東日本大震災が起き、柳ジョージさんが亡くなった
私にとって劇的で、精神的にも金銭的にも辛かった2011年、秋のある日、
FREEN神戸ライブに向けてのリハ最中に、1本の電話が入りました。
今の自分の立ち位置を決める最初の電話でした。

年明け3学期から勤務することになった高校は、
教頭から「逃げる生徒を追いかけられるように、動きやすい格好で来てください」
と言われるようなところでした。
「教員」なんて仕事、まったくわかりません。
「公務員」なんなんだろ、その立場。
でも目の前にそれしかなかったので、やるしかありませんでした。
慣れないうちは、
持っていったお弁当を温めて開けた瞬間の匂いで食欲がなくなりました。
今思い返しても、最初の3ヶ月、
その3学期のあいだ、何をしていたんだかまったく思い出せません。
唯一覚えているのは、
音楽部が卒業発表と称して、演奏するかと思いきや、
ダンスを、それも練習不足の中途半端な発表を見せられて、
ガッカリして職員室に戻ったこと。
それが部活動の見直しに火をつけたきっかけだったかも知れません。

私の通っていた高校には軽音部はありませんでした。
うるさい、何をやっているんだかわからない遊びの集団、
そんな見方をされていたんだろうと思います。
ひとつ上の女の先輩が軽音部結成に向けて動いてくれていましたが、
ある日の教室片付けが不十分だったということで、
先生に反対され流れてしまいました。
放送室を地下活動の拠点としたのは、その一件があったからだったと思います。
私自身のクリエイティブなアイデアは、いつも放送室から生まれていました。

部活のテコ入れをはじめた2年前の新学期、
3人の3年生は人間的にも演奏も(部活内では)すでに絶対的な存在でした。
ずっと3人でブレずに活動を続けていました。
結局卒業してからも、彼らの固い絆は続いており、
学校にも3人揃ってよく顔を出してくれました。
ハッキリ言っておきたい。
メンバーがコロコロと変わるようなバンドは、良い音楽なんて出来やしないと。
高校の部活なんてたかが2年半。
2年半程度の時間を同じ仲間と目標定めてやっていけないようでは、
バンドだけじゃなく、普段の生活だって、人間関係だって、
決して良好に保てやしない。
よく「付き合って1ヶ月」と喜んでいる不可思議なカップルを見かけますが、
1ヶ月で祝うのは新生児だけでよろしい。
人間関係を長く保っていける自信が無いから、
記念日という、一見おめでたい出来事が訪れたかのように自分に暗示をかけ、
自分を安心させているに過ぎない。
そんな価値観じゃバンドでの地道な活動は無理だ。
そんな奴らに限ってバンドメンバーに甘い。
遅刻しても怒らない、待ってたよと受け入れる、
ココまで来るともう末期症状。バンド崩壊前夜。
何か言うと自分が嫌われると思うらしい。
無視される、孤独になるのが怖いのだそうだ。
誰かに対して怒ったり、注意したりする行為、そんなの誰だってしたくない。
でも大切な仲間が道を踏み外そうとしていたら、
声を大にして引きずり戻すことって絶対必要なんじゃないかい?
それをありがたいと思える心も必要だろう?
お互いにそういう関係が築けたら、その人とはずっと長く付き合っていける。

各学年それぞれの特徴がありました。
4期の部員を見させてもらったけれど、
人数が多い学年ほど危なっかしいのは予定調和。
隣の人の顔色を伺いながら、腫れ物を触るように事を進めていく様を見て、
彼らなりに気を遣いながら、
小社会の中で振る舞っているんだなと思ったりしました。
しかしバンドという感情表現の場では、時にそれが弊害になることがあります。
それを顧問としてコントロールできたかと言うと、疑問が残ります。

部活に限らず、学校生活の中で、
頻繁に話しかけてきてくれる生徒がいれば、
先生との距離間を絶対に崩さない生徒もそれ以上にいます。
高校時代の私は後者でした。
そんな昔の自分のような生徒とどれくらい接したら良いのか悩みました。
これからの課題です。

コンテスト出場という機会には、各パート選抜で特別編成バンドを組みました。
この選出方法は、事前に部員の意見を聞いて決めました。
運動部ではレギュラーがいて補欠がいます。でもバンドに補欠はいません。
ただ学校代表となると話は別。部活で最高の力を見せなくてはなりません。
人を選ぶということはとても辛い作業です。
明暗がはっきり見えてしまうからです。
と、ここまでは建前です。

その実際は、層が薄く、選ぶに当たってほとんど悩むことはありませんでした。
身内だけのマスターベーション的な練習じゃ、所詮そこまでなのです。
外の高校軽音楽のレベルを知って欲しい。
そこで自分のレベルを知って欲しい。
そんな気持ちから、他校、他県まで合同ライブに参加できる場所を探しました。
全国レベルのライブに参加させてもらえる機会もいただきました。
参加するのは本人たちの意志です。移動距離もあるので強制はできません。
出演した部員たちは、きっと何かを得たはずです。
そして一度も参加しなかった部員がいたことも事実です。

オリジナル楽曲への取り組みは必然の流れです。
今後の軽音部の世界では、自作曲を持っていないと
もう相手にしてもらえない空気になってきているということです。
最初の曲を作るときこそコード付けのサポートなどをしましたが、
次第に自分たちで考えながら出来るようになりました。
正直なところ、そこまでの成長は予想外でした。
高校生のライブはせいぜい20分前後でしょう。
その半分以上をオリジナル曲でセットリスト組めたら万々歳だと思います。

部活動、顧問としての舵取りには、間違いなく、
軽音部が無かった自分の高校時代の反動があったと思います。
発想の基本はいつも
「こんなことやったら面白いだろう」
「こんなことやったら部員以外の生徒が羨ましく思うんじゃないか」
というものでした。そして、
無茶な思いつきがあれこれ実現できたのは、
相方の顧問の先生の存在があったからだと思っています。
最初に学校へ出向いたとき、
クラリネットを吹いておられたという話を聞いたことにはじまり、
その後も多岐にわたる音楽の話をさせてもらいました。
管理職との交渉や根回し等、面倒な仕事ばかりに奔走していただきました。
部活動だけに限らず、様々な場面で私の心の支えになっていました。
榊原先生への感謝の気持ちは言葉では表せません。

前勤務校では、毎年3月終わりには、こぼれんばかりに桜が咲きます。
でも今年は開花が遅く、見ることが出来ませんでした。
私自身、桜には寂しさとか、はかなさみたいなイメージがあって、
あまりポジティブな気持ちになりません。
今年は遅咲きで良かったと思います。

今日4月1日で、すべてがリセットされたようで、
経験は武器になったかのようで、そうでもないようで、
でもとてもポジティブな年度初めとなりました。

また1年、新たな場所で頑張ります。

  

Posted by mrgntknk at 19:05Comments(2) 雑記 

2014年02月27日

3歳

前々日にケーキを食べ、前日にジブリ美術館に出かけ、
すっかり終わった気になっていましたが、25日が娘の3歳の誕生日でした。

生まれたその日から、
ひとりの人格を持った人間であることを尊重して向き合ってきたつもりです。
まだ小さいから、大人の力で従わせることは可能です。
でもそれはこちらの力量不足なのだと。
家・学校での自分の姿勢や、街なかでの人々の行動からそう感じ、
その都度反省したり、考えさせられてきました。
そして、子どもは親を選べないのだと言い聞かせてきました。

変顔したり、よくポーズ取ったりと興味は尽きませんが、
「〜する!」「〜しない!」の自己主張がよりハッキリしてきたなかで、
ある日「恥ずかしいっ」という言葉を口にしたのが大きな衝撃でした。

根拠のない感想ですが、
1クール終わり、次のクールに入った気がします。

01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
(HDR-MV1で撮った映像をMacでスクリーンショット)

写真 2014-02-24 13 21 03



  

Posted by mrgntknk at 00:07Comments(0) 雑記