全国高等学校軽音楽コンテスト埼玉大会の予選ライブが行われました。
今年で4回目。僕自身は顧問として2回大会から引率しています。
埼玉県の軽音楽という部活動も、だいぶん活気付いてきました。
今大会から予選もライブ審査することになりました。
そしてオリジナル楽曲重視の傾向も強まり、
エントリーをオリジナル曲でした場合、
同じ学校からもうひとバンド参加が可能になりました。
とまあ、いろいろ変化が起こった今年度、
春から連盟の常任委員をさせてもらっています。

とここまでは、事実の羅列です。
以下、自分の中でモヤモヤした感情を言葉として残しておきたいので、
3つの項目にまとめて記します。




「それでも悔しい」

4月に今の勤務校に来て、軽音顧問になれて胸をなで下ろしたのも束の間、
練習環境の厳しさ、練習習慣の未熟さ、レベルの低さ、そして
前年新人演奏会で発見した輝く才能を持つ部員が退部していたという事実、
前途多難な年度初めでした。
4月、5月、6月の途中まで、
仕事がつまらなくて仕方ありませんでした。
部員からポジティブな空気が全く伝わってきませんでした。
毎年のように部活顧問が変わり、それは3年生の活動に確実に影響を及ぼし、
変化を受け入れない姿勢になっていました。
3年生たちは、なかなか心を開いてくれませんでした。

変化が見られたのはコンテストの応募用紙を提出する直前くらいからだったか。
(遅い!)
コンテストも「出ません」と尻込みするかと思っていたけれど、
エントリーすると言い出した部員からは、少しずつ変化が見られました。
なかなかダイレクトにコミュニケーションできなかった3年生は、
なんと、オリジナル曲を作りますと言い出す始末。
前任校でやった同じやりかたで、
彼らの歌詞・メロディから響き(コード)を引き出す形で、
放課後、イメージを具現化していくサポートをしていきました。

僕にしてみたら、今年度はマイナスからのスタートでした。
コンテストに2バンドもエントリー出来たこと、
春には想像もできませんでした。
地区予選上位7バンドから漏れた事実を受け入れる顔は、
春とは違っていました。
3年生は実は、3年生にして初めての学外演奏でした。
演奏後のインタビューでもひとりひとりしっかり答えていました。
1、2年生混合で組んだバンドは、
ひいき目に見てしまう部分はあっても、決勝に残るボーダーにいたと思います。
1年生が夏の大会に顔を出す学校はそういません。
次は狙えると思っています。
大きな進歩はありました。でもやっぱり悔しいです。




「自分のことのように嬉しい、でも」

前任校は他の地区で予選を戦いました。
僕が学校を離れたあと、当たり前ですがいろいろ変化もあり、
でも年に1度目標にしているコンテストには当然エントリーするわけです。
コンテストに先立って、尚美学園で高校生バンドの別イベントがあり、
そちらに出るバンドと、コンテストに出るバンドとを指導しに
前任校まで行ってきました。
更にもうひとバンドは今の勤務校まで足を運んでくれ、指導させてもらいました。

あるとき、
昨年春に都内の合同ライブに連れて行ったときの映像を見る機会がありました。
バンドメンバーを確認しました。
昨年春一番期待しつつも、空中分解してしまったそのバンドのDNAは、
今年のそれぞれのバンドに受け継がれていたんだということに気付きました。

前任校を離れる際、最後だし、書きかけのオリジナル曲を見ておいてやるよと、
そのときまだ未完成だった曲で今回のコンテストにエントリーし、
見事地区予選を突破したと顧問の先生から連絡をいただきました。
僕がいるあいだにそういった喜びを味わいたかった。
広島を離れた翌年から古巣にリーグ連覇されてしまう
浦和のミシャ監督と自分をダブらせてみたりしました。




「これも部活なんだろうなというやるせなさ」

現実、軽音を技術指導できる先生は、県に10人もいないと思います。
各学校諸事情あり、音楽にバンドに縁もゆかりもない先生が顧問になるケース、
これは他の部活含めよくあることだと思います。
だとしても、
「私、楽器の使い方も接続の仕方もわかりません」
「音楽のこと何も知りません」と
カミングアウトする顧問の先生の学校が予選突破したりすると、
正直、俺何やっているんだろという、やるせない気持ちになります。
悔しさ、多少の怒り、情けなさ、
その気持ちをどこに持っていったらいいかわからなくなります。
今回もそんな気持ちになりました。
学校の部活ってのは技術面だけ指導すればいいってもんじゃない。
そういったことも全部受け入れつつやっていかなければならないんでしょうね。